※当記事は非常に個人的なつまらない物でとなっております。お付き合いいただける方はどーぞお読みください。
こーいう内容をネット上にアップするのはいかがなものかと思う。自分のルーツ。
詳細に記述すればするほどまずいでしょ。個人情報を晒したらダメなのは常識でしょ。
でも書くお。ようやく探し、そして今でも探索中の自分のDNAのおはなし。どこかに記しておかないと忘れてしまいそうだから。
2009年に他界したワタクシの実家父は非常に筆マメな人で、一家の来歴を一冊の書き物にして残していた。先祖の来歴になど興味ナイ娘(ワタシ)と息子(兄です)が、いつか奇跡的に先祖の事を知りたくなった時の為に、とでも思ったのだろうか。
↑の父が書き残した「島崎家代々の人々」をめくっていた時。
『八代目登右衛門には男子がなく・・・(略)・・・参州(三河国、今の愛知県)高落村順覚寺から養子をもらった』と書いてある。ふーん・・・八代目登右衛門の没年は安永元年、1772年。ざっと240年前の話だね。今は便利な世の中だ。ワタシはふと、目の前のPCに「高落 順覚寺」と入力してみた。
順覚寺、あった!
先祖八代目に後継ぎが無く、養子にもらった九代目。その九代目はこの寺の子で松崎恒助という少年だったらしい。順覚寺、今でも現存していた~(驚)
俄然、順覚寺に行ってみたくなった。オットにつきあってもらって千葉から愛知県JR岡崎駅へ。やや寂れ気味の駅ですなw
JR岡崎駅西口から名鉄バスに乗って「福桶」という見知らぬバス停で降りる。朝夕で1時間に2本、日中は1時間に1本という少ないバス便だ。
バス停周辺は住宅があるが、すぐに見渡す限りの農地になる。遠くを東海道新幹線が走っているのが見える。田舎だなー。
今でもこんなに人が薄いんだから、240年前はどんな様子だったのだろう。いや、農地って今よりずっと大切だったから意外と人が多かったのかも?
バス停から歩いて10分ほどで再び住宅地になる。ここが現在の「高落町」だ。
240年前は「高落村」だった集落だね。
をを!
あれが現在の順覚寺です。
今回、セルフ・ファミリーヒストリーを敢行するにあたり、ワタシはここ順覚寺さんにお手紙を出した。以下、その抜粋。
拝啓
突然のお便り、失礼いたします。
近年相次いで両親が他界して以降、自分の出自が気になるようになりました。父が生前書き残した、実家の来歴等を改めてながめる気になったのも最近のことです。
さて、私の実家は横浜市内にあり、島崎家と申しますが、その島崎家・先祖代々を書き記した覚書の中に、江戸時代・安永期(1772年から1780年)の島崎家九代目当主についての一節があります。
曰く、
『島崎家八代目登右衛門には男子がなく、養子を迎えた。九代目登右衛門となる人は参州・岡崎高落村順覚寺よりの婿養子である。父親は松崎文平、仏門別名・輪竹と称した。松崎の祖先、嘉右衛門は武士であり(世間一般的には)当時の寺の住職は権威があり、学識もあって上級武士から故あって総門に入った人も居た。輪竹の妻、即ち九代目登右衛門の母親は稲垣摂津守の子孫で、稲垣家から松崎に嫁したのである。』
・・・以上のような内容が書かれており、順覚寺から島崎家に養子に来たのちは、号を弾右衛門とし、島崎相親(スケチカ)と名乗ったそうです。
相親は、天保二年(1832年)八月二十三日に八十二歳で亡くなっています。
島崎家は江戸期を通じて松井松平家に仕え、岡崎城主だった松平康福(やすよし)にも仕えています。
これが正確な情報なら、私の直系の先祖が順覚寺の縁者であり、私とDNAが繋がった人・・・ということになります。
「岡崎の順覚寺。江戸時代の寺だから今もあるかどうか・・・?」と半信半疑ながらインターネットで検索したところ、貴寺院の存在が分かった・・・という次第です。
代々の書付に登場する「順覚寺」は貴寺院で間違いないのか否か。そちらでお分かりになるかどうかは分かりませんが、ともかく順覚寺さんの来歴を知りたいと存じましてこの手紙をお送りさせていただきます。
(以下略)
順覚寺さんの現ご住職からメールで返信が来た。
本日、手紙を受領しました。
さてお尋ねの件について返信申し上げます。
三河、岡崎、高落邑、順覚寺と言うワードから推察すれば、当山順覚寺と推察できます。
江戸時代から当邑一帯は岡崎藩に属していた歴史があります。高落、順覚寺は江戸時代から存在しています。江戸時代には、惣道場.順覚寺と称していました。安永年間には当山第4世が浄土往生(一般では他界)されています。そこで、貴殿の言われる出自についてですが、DNAの繋がりの内容には残念ですが縁遠いとしか言いようがありません。大正、昭和(戦前)までと、昭和18.9年の頃から住持.住職が世襲では無いから血縁関係がありません。前住職さんは昭和18年に還淨され、私の父親(前住職)は、昭和62年3月に還淨しました。当山順覚寺は正徳6年(1716年頃)に火災により全焼しました。その為に、それまでの書物、宝物、本尊など全て焼失しています。ですから、歴史を語る資料は全く無いのが実情であります。
ま、ざっくり言うと、順覚寺自体は江戸時代からあった。が、代々の住職の血縁はもう途絶えてしまっている。
現ご住職もお父様が昭和62年にここの住職に就任した縁で今、こうして住職をしているに過ぎない。江戸時代の住職一家のことは、記録が火事で焼けてしまって何も分からない。
併せてお電話もくださった。「住職を務めているが住まいは別で、お寺は無人寺です」
「江戸時代の火事で焼失した分もあるし、伊勢湾台風(昭和34年)で寺自体もほとんど壊滅してしまいました。過去帳一切もその時に流失してしまいました」
「江戸期はもっと敷地も広く、寺勢もあったと聞いています」
なるほど。
無人だけど施錠はされていないので、境内を徘徊させていただくわ。
建物も比較的新しいし、おっしゃる通り江戸時代を偲ぶものは何もない。残念だ。
お寺の裏手はすぐに矢作川。確かに、この距離では大型台風が来たときは即、水没だったでしょうね。
中央の白い建物が順覚寺本堂。本堂を堅牢なコンクリート製にしたのも、伊勢湾台風の教訓からかしら。
寺の裏に出ると矢作川が流れるこの景色だけは、江戸時代と変わらないか・・・な?
たぶん10代後半くらいの年齢で、ワタシの実家、島崎家に養子に来たのだと推察する少年、松崎恒助改め、島崎相親くん。(すけちかと読む)貴方が見た風景はこれと一緒ですか?同じ場所に立てただけでもうれしいな。
今回の探索はここまで。相親くんの実家跡は突き止めた。この後、相親くんを追ってワタシとオットは島根県浜田市に行きます。
それはまた後日・・・(2015年12月14日訪問)
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