オットは萩市とその周辺の世界遺産物件が見たいという。ワタシはそのお隣県、島根で自分のルーツ探しをしたい・・・そういう目的の旅行の記録です。
2017年5月13日(土)
浜田城をひと巡りした後、もう一ヵ所行ってみたい場所が。
先祖、島崎相親(スケチカ)さんの経歴に『1784年(32才 跡市組手代』と。
アトイチって何?
検索したところ、浜田市街から距離20km東にある、現・江津市 跡市町のことらしい。
行ってみましょう。
こにゃくう、下準備はしております。
旅行前に江津市図書館にメールして、地元の歴史に詳しいヒトを紹介していただきました。
(※浜田城から車で30分。跡市町に到着。ここが町のメインストリートです)
『跡市の歴史に詳しいT.Oさんにお問い合わせの件を伝えました。跡市の歴史と言えばこの方です!』(図書館の方)
旅行前にT.Oさんお電話させていただいてインタビューいたしました。
(※やや高台から跡市町を俯瞰。けっこうなイナカだー!)
こにゃ 「跡市組、って何でしょう?先祖はそこで仕事をしていたらしいのですが」
T.Oさん 「浜田藩は領内を7つの組に分けて管理していました。跡市組、三隅組、市木組、原井組、出羽組、益田組、匹見組の7つです。そのうちの匹見以外の6ヵ所に代官所を置いていました。」
こにゃ 「じゃ、先祖はそこで代官所役人をやっていたと?」
T.Oさん 「代官所の構成はこうです。代官が1人。そして、手代が2人。この3人は武士で、藩から派遣されてきた人達です。貴方の先祖はこの手代ですね。その他、書記を1名、門番・雑用1、2名を現地採用って体制です」
(※昔は街道だったんだろうな、とイメージできる真直ぐな現・跡市町メインストリート)
T.Oさん「手代屋敷、というのがありましてね。代官所に付属しているのですが。そこに住み込みです。単身赴任のこともあったでしょうね」
うわー。さすが地元の古老です!20㎞離れた城下から派遣されて、単身で住込みしていた先祖の姿が見えた気がします。
T.Oさん 「我々、地元の歴史研究グループで代官所があった場所に石碑を建てましたから、行ったら探してみてください。山の中腹には手代屋敷の石垣跡だけがありますよ」
代官所はどこにあったのだろう?とりあえず郵便局に駐車して、探索開始。
駐車場の奥に第1町人発見。この人を逃がしたら誰にも聞けないんじゃないか、ってくらい人の気配が薄い町だったので、突撃です!
農作業中の女性でした。「この辺に江戸時代にあった代官所の跡を探しているんですが、ご存じありませんか?」
「は?ココよ」(地元女性)
まさかのビンゴ!この郵便局の裏手の斜面が代官所があった場所だ、と仰る。
地元女性「こーんなところに?って思うでしょ(笑)今はこんなだけどね、私が子供のころはまだまだ賑やかな町だったのよ。他の町には無いお店とか食堂がこの通りには並んでいて。遠くからバスに乗って買い物に来る人もいたし、お祭りも賑やかだったわ」
そっか!日本海側と広島側を繋ぐ街道と、浜田藩内を東西に移動する街道の交差点がこの跡市だったんだね。
江戸時代・・・いや、もっと前から跡市は人と物資移動の要衝だった、と。だから浜田藩は代官所を置いたのか~。女性のおはなしでガッテンできました!
ワタクシはこの田舎っぷりを見て「ご先祖様、僻地に左遷だったのでわ・・・」などと心配しちゃいましたよ。ごめんなさい、ご先祖様w
車社会になるまでは、この代官所前の道が幹線道路だったんですね。
T.Oさんのグループが建てたという石碑はこれですね。先祖の職場が200年以上経っても、地元の歴史のひとコマになっているのって有りがたいです。
なんとも判別し難いのですけど、正面左手のこの辺りは一段高くなっており、近年まで誰かが土地利用していた気配が残ってます。これが手代屋敷跡、なのかも?しれません。
廃屋好きなワタシでもちょっと近寄りたくない廃屋。この右側が広めの敷地になっているのでメインの代官所建物はこのあたりかな~?
代官所メインビルディング跡と思われるところは、火事の跡がナマナマしく残っていました。
「ここね、住んでた人がいたんだけど火事で焼けちゃって」(地元女性)
ひ~。
焼け跡そのまんま放置ってスゴイなー
イノシシの仕掛け罠越しの代官所跡石碑。・・・からのバックにエグイ廃屋w カオスなスポットとなっております (笑)
でもね、高台からの風景はなかなかですよ。代官所からの山の景色。200年前と変わらないのかもね。
我が家に残る記録では、1784年~1793年まで赴任していたと思われます。
ご先祖・島崎相親さんの単身赴任先が確認できて満足満足。(イノシシちゃん、捕まるから来ないでね!)
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