松平周防守は浜田藩主さまです。「浜田藩の大阪(坂)蔵屋敷かー。先祖の相親さんも勘定方やってて大阪に頻繁に行ってた、って聞いたなー」
と、軽い気持ちで流し読みしていたところ・・・「島崎(嶋崎)」の名前発見。
静かな図書館で「あったー!」と叫びそうになりました。今回捜索した島崎相親さんの長男、秀恭こと梅五郎さんの名前です。「大阪御屋敷御雑用方」
へ~え!雑用方・・・一番下っ端の書記官かなー?しかし、顔も知らない先祖(の名前)と島根の図書館で初対面した歓喜
は、続く記述で「えっ?」(汗)
に変わりました。
この、森須和男さんが書かれた研究レポートによると、大阪蔵屋敷勤務の島崎梅五郎さんは浜田藩のスキャンダル、竹島事件に於いて『大阪で、資金協力してくれる豪商を実行役の船乗り・今津屋八右衛門に紹介した』と書かれていたのでした。
『大阪蔵屋敷は竹島一件に関して銀主さがしと云う重要な役目をになっていたのである』
と森須和男氏の文章は続きます。スミマセン、それ私のひいひいひい祖父さんですっ!
※浜田城から見える美しい海。遠くへ漕ぎ出したくなるのも分かる※
「先祖の藩はアンラッキーなことに、密貿易がバレてね。石高少ない棚倉藩に左遷させられたんだよ」と父から聞かされていた幼少のこにゃくう。「殿様のせいで迷惑だったねー」ってな感想を持つ子どもだったのだが、なんてこった。自分の先祖も事件の一味だったんじゃん!
後日、「嶋崎梅五郎」でweb検索したらゾロゾロ出てきて文字通り、震えました。ワタシも、ワタシの父も知らなかった先祖の過去。
嶋丈太郎さんという方が竹島事件を描いた小説『海流の涯(はて)』が検索でヒットしました。作中で、ひと言だけながらセリフを吐く梅五郎さんに「ご先祖様がこんなところに居る!」と、なんとも奇妙な気持ちになりました。
※明治5年に大規模地震があり、江戸期の城下町は残っていない浜田※
出世すると人には言えない仕事も抱え込まなきゃならなくなるのは、今も200年前もいっしょだね。梅五郎さんは藩の命令に従っただけ、と思いたい。
『甲子夜話』という江戸時代の随筆を読むと、この事件に関わった人間の処罰と、判決文が出ています。
家老の岡田さんと重鎮の松井さんは切腹。勘定方上司の橋本三兵衛さんは斬首。
実行犯、というよりも密貿易をやらされた船乗り八右衛門さんも斬首。
藩主は老中解任して永蟄居。藩は棚倉藩(現・福島県棚倉市)に左遷。
※本丸から城の裏手へ行ってみる※
島崎梅五郎さんに下った処罰は「押込め」と書かれています。押込め・・・?ぐぐったところ、監禁でしょうか。牢ではなく屋敷内に軟禁です。20日・30日・50日・100日の4コースの刑期があったそうです。梅五郎さんの場合、どの期間だったのかまでは記述されていません。切腹に比べれば軽い罰で済んだ?とは言えそうです。
でも、上司や知り合いの船乗りさんの命が絶たれたことは梅五郎さんにはショックな出来事だったと想像します。
梅五郎さんが勧誘した大阪商人さん達のその後も気になります。甲子夜話を見ると「大阪三郷を搆江戸払」って・・・これって大阪エリアから追放して江戸で暮らせってことだよね?
今まで大阪で無事に商売をやっていたのに、そんな・・・酷い。事件後、皆さんがどうなったのか?資料はまだ見つけていません。
ワタクシ、図書館でひとり冷や水を掛けられたような気持になりました。『棚倉時代には、浜田の事に触れるのはタブーだったようで』(亀山12号)と記述している資料もありました。
浜田で起きたことは、実家・島崎家でも封印されてしまったのかもしれません。それで事件の当事者だったという真相は、父にも伝わっていなかったのね・・・
※浜田城の裏門跡。家臣は通常この門から出勤したそうです。今は人家が建ってます※
現在の浜田市では、竹島事件で落命した人達の名誉回復が行われているそうです。
「言うてみれば、藩の財政を豊かにするには増税と年貢引き上げをすれば手っ取り早いのに、庶民に負担掛けることなく、自分らが犠牲になって藩主様のリクエストに応えようとしたのだから、それって庶民の英雄だったってことじゃない?」
・・・という視点に変わったのだそうです。時代が変われば歴史観も変わるのですね。
※浜田城の裏手は静かな入り江。釣りに最適っぽい!※
浜田市内には橋本三兵衛の石碑や今津屋八右衛門の慰霊碑があります。
※浜田市HPより:今津屋八右衛門慰霊碑※
今回は史実を知らなかったので立ち寄りませんでしたが、次回浜田に行った時には慰霊碑に手を合わせなくては、と思っています。資料を漁って浜田市立中央図書館に2時間!その間、閲覧コーナーで読書をして待っていてくれたオットよ、協力ありがとう。
おかげでセルフ・ファミリーヒストリーの旅は大収穫でしたよ。
さて、今夜は浜田近郊の有福温泉に宿泊です。