棚倉城址/江戸時代天保期の先祖の職場@福島県/棚倉町
2019年3月23日(土)
こにゃくう実家の先祖の足跡を辿る旅に来ました。これまで埼玉県川越市、愛知県西尾市、島根県浜田市、島根県江津本町を訪ねています。今回は福島県棚倉町を探索。(以下、非常に個人的な内容が続きます。ご興味あれば)
東京駅から新幹線で新白河駅へ。レンタカーで棚倉町を目指します。毎回オットがドライバーで付き合ってくれてサンキューです。
新白河駅から約50分のドライブ。JR磐城棚倉駅前に到着です。うっわっ。何もない駅(小声)ついでに歩いている人も居な~い。ちょ、ちょっと寂しい町?まずは町内を歩いてみましょうか。
ワタクシの先祖一家がなぜこの町に住んでいたのか、のお話。1835年まで、こにゃくう実家島崎家は島根県にあった浜田藩で武士をやっていました。殿様である松平康任氏が仙石騒動(江戸時代3大お家騒動のひとつ)と竹島事件(鎖国なのに朝鮮国と内緒で貿易してたのがバレちゃった事件)の処罰として、浜田藩から棚倉藩に転封に。左遷です。殿と共にこの北国に引っ越してきたわけ。
棚倉城址はすぐ近くにありました。狭い町なので、スグです。堀が残っているので「城址」と分かりますが、それ以外に何の構築物もありません。石垣は無く、土塁だからかな?素朴な印象。
中央が平坦な広場になっています。ここが、往年の本丸の跡地でしょう。うわー。ちっちゃい面積だなあ、と思います。ワタシは、前任地だった浜田城も見ています。(過去記事)浜田城の本丸の規模と比べると、3分の1かなあ?懲罰的転封、という意味を実感する狭さです。
暮らしやすい浜田から東北の小藩にやって来た松井松平家の藩士一同は、どうやって暮らしていったのだろう?苦労があったことは間違いない。当時の引っ越しはどんなだったのかしら?それに、実家先祖はこの町のどこに住んでいたの?そんなことが知りたくて、今回は実地探索に来たという訳。
棚倉城の別名は『亀ケ城』っていうんだね。あちこち歩いて「ご先祖様もここで仕事してたのかなあ」と思うのだけど、いかんせん何も痕跡がなくて想像しがたい。
セルフでファミリーヒストリーを紐解こうと、実家の過去を遡ったブログ記事をいくつか書いてきました。こんな個人的な内容でも目にしてくれる方はいるようで「江津本町と先祖の埋蔵金伝説」という記事に、耳寄りな情報をコメントしてくださった方が現れました。そねださん曰く「NHKファミリーヒストリーで市村正親さんのご先祖様が浜田藩士で、棚倉に転封されてそちらに墓があるという放送がありました。こにゃくうさんのご先祖様と同僚なのでは!?」なに~、俳優の市村正親さんの先祖とウチの先祖が同僚!その放送は見逃しているのだけど、棚倉調査の大きなヒントを発見!そねださん、その節はありがとうございました。(放送は見ていませんが「全文書き起こしサイト」で内容確認できました)
NHKが1度探索済みならば、町に取材の結果が残っているに違いない。毎度、先祖の足跡探しの際に頼りになるのは地元の図書館です。図書館にはレファレンスサービスという心強いサービスがありますからね。棚倉町立図書館を頼りました。『棚倉藩に転封した松井家藩士だった先祖の足跡探しをしています。1.当時の藩士の住宅が分かる古地図 2.暮らしぶりが分かる資料 3.藩士の名簿 が図書館資料にありましたらご案内ください』とメールを送りました。併せて『郷土史に詳しい方がいらしたらご紹介いただけると幸いです』とも。
図書館員さんはある程度の資料をワタシの訪問に併せてピックアップしてくれ、スムーズに閲覧ができました。返信メールで『郷土史に詳しい方ですが、Y氏(ここでは仮名)という方がおられます』と取次をしてくださった。そのY氏こそが、そねださん情報のNHKファミリーヒストリー市村正親さん回で棚倉にある市村家の墓を見つけた男性でした。ワタクシ、Y氏に連絡を取ってご協力を仰ぎます。この方の情報量がスゴイ。
※棚倉城址、本丸を囲む土塁の上を歩く
Y氏に教えていただいた資料から分かった引越しの様子に驚きます。
浜田から棚倉への国替えに際して、藩からは「勝手次第」という御触れが出たそうです。 つまり、福島までついて来たい人は自腹で来てね、ということ。懲罰の転封なのだから幕府から引越し代が出るわけないですよね。補助金ゼロ!の引越しだったそうです。 できなければ浜田に残れば?またはどこに行ってもいーよ、というのが「勝手次第」
【追記2021.03.20】天保7年5月『棚倉行き「路銀」の家格別支給路銀額の通達』資料があるそうです(浜田市立図書館岩間家文書)勝手次第ではあるけれど、引越し代は身分によっていくらか支給があった模様。(追記以上)
それって、武士やってた家庭に無職になれってことで、それを呑める家庭は少なかったみたい。結局、1132家のうち1072家族がド根性で福島まで来ます。
1400㎞の距離、1~2ケ月はかかる行程の多くを船と徒歩で。大変だっただろうなあ・・・
※元は二の丸だった辺り。住宅地になっています
Y氏には、電話やメールでもリアルなお話しを教えてもらいました。
「浜田藩から移動してきた1072家族。でも棚倉には200軒の家しか用意がない。住む家がなかったんですね。四家あった家老は違うでしょうけれど、一般家臣は1軒を仕切って2、3家族で住んでいました」(Y氏)なんですか、ソレ!気の毒すぎっ。プライバシーとかそーいうのってどうなっちゃってたの~(涙)長旅を終えてもそんな生活では疲れが癒えないよぉ。
『浜田から移住した人の半数、1800人が死亡します』と資料が伝えます。実家当主島崎梅五郎も、棚倉に引越した翌年に亡くなっています。
祭のポスターには棚倉10万石と書いてあるけどそんなには獲れなかったはず。浜田は5万石でしたが、棚倉は3万石がせいぜい。千軒以上の家臣とその一族が食べていける収穫もなかったって。(十万石、は棚倉最後の藩主だった阿部家が領した石高に由来したネーミング)
※内濠に架かる橋を渡ると元二の丸方面
お給料は男性で1日5合の玄米、老人と女性は1日4合の玄米。食べるだけでなく、これを換金して生活費に充てるのが武家の暮らし。草や壁土用の藁も食べたって話が残っているそうです。
(多くの情報を初雁温知会会報25号「棚倉藩への転封」長田礼氏著よりいただきました)
※江戸時代の初め、築城の時にはすでにあったケヤキの木
そんな城内でどんな仕事をしていたのかなあ、ワタシの先祖。亡き実家父が書き残した記録ではこうなっています・・・
『嘉永2年(1847年)島崎梅太郎弾右衛門 影烈(カゲツラ)が家督を継ぐ/安政元年(1854年)1年の江戸詰めを仰せ付けられる/安政3年(1857年)弓術御前仕合で皆的中し藩主より弓拝領。殺生方の役を仰せ付けられる』
32歳の弾右衛門影烈くん、殿の目の前で矢がヒットしたおかげでやっと出世の目が出たか。で、殺生方って恐ろし気なお役目ってナニ?Y氏資料(三芳野温知会発行藩政回顧録)に寄ると藩主の鷹狩の準備担当者らしいです。いきものがかり、かな?(チガウカモw)
※樹齢600年!このケヤキは弾右衛門影烈くんを知ってるはず
その後、再びの江戸勤務(桜田門番所勤務)とか御普請所、下横目…とやらの担当をこなして江戸と棚倉で勤務します。(御普請所はY氏の資料でも判明せず。下横目は監察係らしい。お巡りさん的な?)子供も6名成人(1名死亡)しているから、そんなに飢えた生活ではなかったと思いたいです。
東北の城址ですから、3月でも冬の装い。春はまだ遠そうです。この桜が咲いたら美しい城でしょうね。
「御家中分限帳」を図書館で閲覧しました。(藩士の社員名簿、みたいなものかな?)そこに『下横目役・下目付役 一切米八石弐人扶持 島﨑弾右衛門 四十五歳』の文字を見た時、弾右衛門影烈くんって確かにここで生きていたんだね、とぼんやりとシルエットが見えた気がしました。(市村正親さんの先祖氏も載ってた~。ホントに同僚だったわ)
【つづく:棚倉町を散歩】
2021年 亀ケ城公園 - 行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー
亀ケ城公園(棚倉町)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(15件)、写真(71枚)、地図をチェック!亀ケ城公園は棚倉町で2位(20件中)の観光名所です。
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