2019年3月23日(土)
1800年代半ばの江戸時代。ワタクシこにゃくう実家の先祖は棚倉藩士をやっていました。先祖一家が暮らした棚倉は、どんな町なのか知りたくて訪問した日の記録の後半です。
前の記事で探索した棚倉城から離れ、徒歩で北上します。城址から真っ直ぐ延びる県道177号線は棚倉街道。この道、江戸時代とほとんど変わらない形状でびっくりです。
棚倉町立図書館でコピーしてもらった「棚倉城絵図 家中屋敷割」という地図と照らし合わせて歩いています。町のメインストリートともいえる177号線は古地図の赤線です。両脇に町屋が並んでいる構造も江戸時代から変わらないんだね!先祖も、日々のお買い物等はこのストリートに来ていたのかしら。
駅前通りとクロスする交差点付近にピンク色の和菓子店、
甘盛堂。気になるから覗いてみよう。
いちご大福と梅大福を購入。大粒苺と粒餡&白餡、そして草餅のコラボ。甘くて酸っぱくて、みょ~んと伸びる草餅の食感が美味しかったわ。シロップ漬け青梅の大福も大粒梅使用。味のバランスが整っています。棚倉の人気店かもなあ。藩士の末裔としては焼菓子「殿さまごのみ」を買わなかったのが抜かりましたっ。
地元スーパー発見。ここではお花を買おう。だって、今は春のお彼岸シーズンだからね。
棚倉城の次に訪れたかったのはここ、蓮生寺。棚倉住み時代の先祖の菩提寺だった寺です。表通りから細いアプローチを入り込んだ先に山門がある。これも江戸期地図と変わらない構造でひそかに感動してます。
江戸期武家の国替えは藩ぐるみの大型転勤。実家祖先は福島に住んだ後、埼玉の川越に移るのですが、ここに埋葬した家族は置きっ放しにするしかなかったのよね。埋葬した子供、親の墓をそのままにして遠くに引っ越さなければいけなかった人たち。武士もやるせない商売だなぁ。
蓮生寺境内に、古い墓石がみっちりと並んでいる一角があります。これは、時が経って散在してしまった旧松井家藩士家族の墓石を集めて整備してくれたコーナーです。スーパーエコスで買ったお花を供えよう。
「天保十一年」の文字か見えるから、年代からいって松井家家中の人のお墓ですね。棚倉町にはこうした藩士家族の墓を整備した寺が9か所もあります。寺の方と棚倉在住の元藩士末裔の方々がボランティアで整備してくれたもので、毎年墓参と清掃もしてくれています。こにゃくう実家の島崎家では棚倉住まいの間に3名の家族が亡くなっていますが、墓石は見つけていません。(昭和63年に蓮生寺を訪れた亡き実家父が1人分の過去帳だけを見つけています)

蓮生寺境内に枝垂れ桜の大木が。もう蕾が遠目にも見えるくらいに膨らんでいます。これ、満開になったら素晴らしい桜だろうなあ。その桜の真下に藩士ゆかりの墓石群。ワタシの先祖含め泉下におられる御家中の皆さんは、毎年この桜に癒されていいることでしょう。
「この先の町はずれに城跡があるらしいよ」というオット情報。サクッと歩いて登れるらしいから行ってみようか。
今は赤館公園になっているちょっとした山。そこには棚倉城が造られる前の城が建っていたそうです。赤館城って言ったんだって。へー。
テクテク登っていくにつれて棚倉の町を見下ろせるようになって来る。「いつから城があったのかよく分からないくらい昔から城があったらしいよ」(オット)江戸時代になって、この山城では不便、ってことで今の棚倉城の場所に新築したのかなあ。
ってことは、実家先祖一家が越して来た時にはすでに、ここは忘れ去られた城の跡だったのかもね。桜はまだだけど、梅がちょうど美しい。
でもさ、途中の廃屋ホテルが不気味オーラー全開で不穏なムードの山道ですよ。もしかして、赤館って今も忘れ去られている~?我ら以外、誰も居ないし~
城だった形跡は何もない。けど、たくさんの染井吉野が植えられています。コレ、来月になったら桜だらけで美しいかも。町民が赤舘を思い出す、年に一度のシーズンかしらw
連なる提灯。お花見の準備を進めていますね。棚倉の町が見下ろせました。山に囲まれた棚倉町の様子、久慈川に沿って南に土地が続いている気配がよく見える。
手前の三角屋根は、先ほど行った蓮生寺。もうひとつの三角屋根は蓮家寺(ここにも家中の有縁無縁集墓地がある)その奥、葉が落ちた樹木が密集している一角が棚倉城ですね。うーん、やっぱりちっちゃい城・・・
標高300mほどの山に登れば見渡せてしまうコンパクトな棚倉城下です。この中で先祖は御家中の人達と協力しながら暮らしていたんだね。だからワタシが今、生きているんだね。
赤舘城址から下山。今でさえこうなんだから、1800年代は相当ワイルドな山だったんだろうなー。『城勤めの合間に、山野で鳥獣を狩ることが唯一の楽しみだった』という話が実家の記録に残っています。先祖は赤舘でハンティングをしていたかもしれないね。
予定していた行動はこなせました。最後に「棚倉城絵図 家中屋敷割」に「嶋埼」と表記されている家があるから、その場所に行ってみよう。
棚倉町立図書館でコピーしてもらったこの地図はスゴイんだ。原本はシロウトには読めない文字で書かれた、謂わば家臣の住宅地図。それを初雁温知会(松井家家臣末裔の会)の山田茂氏と小川雅久氏が解読して、読み取った戸主の名前を余白に書き込んだものです。これなら今の人間でも読めますよね。
お城の北門を出てすぐの土地「→」に「嶋崎恒太」と書いてある。よくこれで嶋崎恒太って読み取れるなあ!と感心です。でも、実家嶋崎家の戸主に「恒太」はいないんだな。別の嶋崎さんだろう。でも、気になるから一応この場所を探してみよう。
江戸時代と今でほとんど道の造りが変わっていない棚倉なのに、この周辺は形を変えてしまっていて、元の道が判別し難い。しかも、コピーの文字がつぶれていて目印になる建物等が読めな~い。悩んだけど、ここじゃね?ってことに。和田医院の駐車場が元嶋崎恒太さんち、と暫定。
もし、ここが先祖の家跡だとしたら悪くない土地じゃない?お城近いから職住接近。角地だし。道を挟んで神社があるよ。神社は江戸時代からあったに違いない。子供たちのいい遊び場になってくれそうだ。
ひと通りの探検を終え、満足感と共に棚倉を引き上げました。
後日、今回の捜索に協力してくださったY氏にお礼のメールを送りました。『屋敷割図を見て、ここが先祖の住まいだったかも?としみじみしました。曾祖父も向かいの神社で遊んだかもしれない、と想像するのは楽しかったです。が、恒太という先祖はいないので別の嶋崎さんでしょう』
Y氏からの返信メール『家中で嶋崎家はもう1軒で、通称は善次郎ですので「家中屋敷割図」の嶋崎はご先祖と考えていいと思います』
ええ~!Y氏がそう仰るのならそうなのか??・・・
そこでハッ!と思い出したことが。当ブログファミリーヒストリーの
愛知県西尾市の回で、9代目を継いだ養子少年の話を書いたのだけど、彼の幼名が「恒助くん」だ!代々、同じ漢字を名前に使うのは昔の人あるある。ウチに生まれた男子は恒なんちゃらを幼名にしていたんだ!と気づきました。(遅い)恒太は嶋崎影烈の幼名かも。武士って成長すると名前が変わったり、オフィシャル名とプライベートの名前が違っていたりして分かりにくいわっ
さらにY氏メールによると、ワタシは嶋崎恒太さん宅の場所を間違えてプロットしていたらしい(涙)
『和田医院駐車場がご先祖の住まいだったかもしれない、と書かれていますが、和田医院のある辺りは半分城内のような区域で侍屋敷は無い所です。ちなみに嶋崎恒太の名が書かれている所は別の場所です』(Y氏)
Y氏に教えてもらった場所はここ!閉店した書店と歯科医院に挟まれた駐車場の奥の農地(?)ですって。く~(涙)ちょこっとズレていたかー。また棚倉に行かなきゃね。今回の先祖の足跡探しはここまで。せっかく福島に来たので温泉に泊まっていきます。
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