Welcome to my blog

京都

舞鶴引揚記念館/海の京都へ@京都府/舞鶴市

2 0
前の記事より続き】
2019年6月15日(土)
オット、ムスメの3人で京都府北部を巡る旅。舞鶴市に来ています。
舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
舞鶴引揚記念館。(公式HP)お地味な施設です。展示物に身震いするだろう、見るのも辛くなるだろう、と想像できちゃうのでスルーしたくなる所。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
エントランスに流れる映像で「はるかシベリアの地を臨む」とか言ってるし、日本の兵隊さんが銃を放棄させられているシーンがパネル展示されている。スタートからツライ。でも見なきゃなあ。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
この記念館近くの河口にはちっちゃな桟橋があります。ここは、第2次世界大戦後に旧ソ連の抑留から解放された日本兵(約47万人)が降り立った桟橋を復元したものだそうです。(画像は海の京都GMOフリー画像から)舞鶴は、抑留兵が降り立った最初の日本の地だったというご縁で記念館があります。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
ムスメが訊いてきます。「ねえママ、じいちゃんは何ていう収容所にいたの?」えーっと・・・バイカル湖あるじゃん?湖畔のイルクーツクから東の山奥に入った「ハルハタイ」って言ったなあ。この地図には載ってないね、とワタクシ。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
ワタクシこにゃくうの実家父(2009年他界)はシベリア抑留経験者のひとりだ。この記念館入場にナーバスだったのはそういう理由。館内には、抑留生活を実感してもらう復元コーナーが。実家父は手記で『ハルハタイに送られた日本兵は200名ほど。住む丸太小屋は、翌日から木を伐り出すところから自分たちで作らなくてはいけなかった』と綴っています。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
こんな丸太小屋だったのかなあ?いや、違うぞ。『窓はなく、出入り用の口が一つあるだけ』って書いている。『気の利いた煙突付きペーチカなどない。通路で松の枝を焚く。煙で息苦しく、結膜炎になる人続出』(実家父手記)この展示の小屋はマイルドだ。高待遇だ。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
収容所にもクオリティの高低があったのでしょう。実家父が送られたハルハタイ収容所はかなりヤバくて、1945年11月3日に収容開始で、翌1946年3月には生き残りは約60人になってたそーだ。(実家父手記情報)4ヶ月で200人が60人!死因のほとんどは餓死、衰弱死。死亡率70%のサバイバルに残れる自信は、ワタシだったら無い。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
展示物の中で、もっとも見学者が惹き付けられるのがこの『白樺日誌』。紙の支給など無いので白樺の皮に書き綴った和歌集です。缶でペン先を手作り、炭をインクにして書いたというのが驚き。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
過酷な日々の中のワンシーンを切取って謳っています。不安と絶望、それでも諦めず希望を持ち続けた作者(とその戦友たち)の姿が見えるようです。
「しかも、字がきれいよねえ」と覗き込む令和の見学者たち。彼ら、20歳そこそこなんですよね。すっかり筆記用具で文字を書くことをしなくなっちゃった我々は、若いお兄ちゃんがこんな文字を書くことにも驚きます。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
ちな、コレは実家で発掘されたハガキ。実家父、20代。消印は1947年1月18日の意味かなと推察します。このころ、ようやく日本政府は米国を通じてソ連と「引揚に関する協定」を結びますし、実家父も山奥の地獄の底のような環境からイルクーツク市街地の「白いシーツと毛布があるベッド」という「天国」のような収容所に移されています。(父の手記より)実家に連絡することが許されたのでしょう。う~ん、やっぱり字が上手い。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
上手すぎて、20代のおニイちゃんのハガキには見えません。ついでに達筆すぎて所々、読めませんw
検閲されるから当たり障りのない内容になっていますが、これを受け取った家族は「生きてた!」って号泣したのではないかと思う。死亡通知が来ていないのに、終戦になっても戻らない。どうなっちゃったのだろう?と不安だったと思います。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
再び、展示物の『白樺日誌』です。収容所では毎日のように持ち物検査があったと実家父は書いているし、いよいよ引揚船に乗る時も不意打ち含め、何度も持ち物検査があったそうです。
この作者さんはよくぞ持って帰って来れた!と、そこにも驚きます。
文字の丁寧さと作風から滲む人柄に、今は亡き実家父を重ねて思う展示物でした。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
こんな簡易な桟橋だったんだなあ。父が生きていたら、この時の思いを訊いてみたかった。
父は1947年5月と、比較的早い段階で帰国が叶っています。(最終便は1956年)それは『自分を贔屓にしてくれたソ連軍の女性軍医が、こっそり帰国を采配してくれたから』と手記で書いています。ソ連政府が(日本政府もだけど)悪いのであって、手を差し延べてくれるソ連人もいたのでした。


舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
ワタシはもちろんオットとムスメも口数少なくなってしまった記念館見学でした。
「お義父さんが諦めなかったからこにゃくうがいるんだね。桟橋はすぐ近くだ。そっちにも行ってみよう」(オット)車で移動です。

舞鶴引揚記念館/海の京都@京都府/舞鶴市
「女医さんがいてくれたからワタシがいるのかもね」(ムスメ)そうだね。叶わない願いだけど、ママも女医さんにお礼が言いたいよ。
ムスメと実家父はとても仲良しだった。ちっちゃい頃はいつも二人でポケモンフィギュアで遊んでいたなあ。じいちゃんの青春を想像していたのか、ムスメは黙って静かな入り江を眺めていました。
【つづく:伊根の舟屋へ

舞鶴引揚記念館 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー

舞鶴引揚記念館(舞鶴市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(97件)、写真(124枚)、地図をチェック!舞鶴引揚記念館は舞鶴市で1位(80件中)の観光名所です。

関連記事
国内旅行京都

2 Comments

There are no comments yet.
ファミリーヒストリー

ふわり  

2021-04-16 11:24

セルフでファミリーヒストリーのシリーズはとても興味深く拝読していました。
お父さまの男前のモノクロ写真、覚えていますとも。
そのお父さまがなんとシベリア抑留者であったとは。
山崎豊子の「不毛地帯」で描かれていた過酷さを思い出しました。
ご苦労なさったあと、こにゃくうさんに美味しいものも温泉も楽しみ方を教えてくださったんですね。

EDIT  REPLY    
こにゃくう
To ふわりさん

こにゃくう  

2021-04-17 17:27

暗い内容ですのに読んでいただいてありがとうございます。
父はあの世代の日本人男子にしては高身長(177㎝)だったのと、顔の構造も割とイケててはっきりしているタイプだったので女医さんに好かれたのかもしれません。
女医さんの身の回り係に選ばれ、彼女が同情してくれて早く帰れるよう画策してくれました。顔面偏差値が命を救うこともあるのね^^;
帰国しても、母と出会って結婚したのはずっと後年でした。(しかも母の前に1回結婚してるし~w)
戦後は独身生活を楽しみながらたくさん旅行してオイシイ物を食べることで、戦争中に失った時間を取り戻そうとしていたのかもしれません。
仰るとおり、それをまんま私に伝授してくれたのだと大人になって分かりました。

EDIT  REPLY    

Leave a reply