オットの生家を訪ねる旅・その1を書いてそのまま放置してたこのネタ。すみません、ノロいですがぼちぼち続けてその2にいきます f(^^;)今やオサーンのオットが、2歳半まで暮らしていた町を探検しようとやって来た。
オット家の社宅は、このV字状態の谷に沿ってできた町にあったという。
それじゃあ、ガラッガラの荒れ地の谷を降りるよ!
当然ながら登山スタイルのこにゃくう。足元も登山靴&山登りスパッツで探検気分盛り上がり
さて。当てもなく無人の地を歩き回るのは危険だし、効率悪いです。今回の探検に臨み、こにゃくうは群馬県嬬恋村の役場にメールを出した。
が、そのだいたいの文面だ。
嬬恋村 総務課様
義父は群馬県の小串鉱山をいう、今は閉山となった山で労働していたそうです。近日、小串を訪ねてみたいと思っています。今では地名すらなくなってしまった土地ですから、当時の地図が入手できません。
どこにお尋ねしてよいかわからず、メールした次第です。当時の小串鉱山の住宅地図は村役場にありませんでしょうか?お忙しいところ、私用なお願いで申し訳ありません。
こにゃくう
嬬恋村役場さん親切です!即、対応してくれましたよ
こにゃくう様
嬬恋村役場 総務課●●と申します。
申し訳ありませんが嬬恋村役場には小串の資料がありません。
しかし、小串御地蔵堂等慰霊の会で事務局をしているHさん(仮名)という方に電話したところ、
こにゃくう様宛に電話をするとのことでした。
・・・以下略・・・
元はこの山頂の町の住民で、今は山の麓の町に移住したとおっしゃるHさんという70代の男性が、実に親身になってくださった。 手元に保管中だった昔の住宅地図 をこにゃくうに送ってくれたのだ。
これで道に迷わずに探検できる!町は消滅していても、地形はそうは変わらないからね。
青○の場所が車を止めたスタート地点。(一枚目の画像の場所)
赤○ のこのあたりにオット家があったらしい。
拡大してみよう。義父と義母に地図を見せたところ、「ああ、ココ!五区のね、一番奥に職員クラブってあるでしょ?これはまあ、会社の迎賓館みたいな存在だったの。他よりちょっと豪華な建物でね。私達は自虐的に狸穴御殿(まみあなごてん)って呼んでいたわ。我家はその手前にあった5軒が一棟になった社宅の1室よ」(義母)
・・・ということで、目標は★の所と決定だ。
行くぞー、オーッ 
「この地図は今は小串慰霊会の人で当時は労働組合の委員長だった方から送っていただいた」と義父に話したところ、名前も出さないのに義父はこう言った。
「もしかして、それってHさんじゃない?」
その通りです、お義父さん!どうして分かった?
義父は当時、まだ大学出たての新入社員だったから、Hさんの記憶にはないだろう。が、義父の方は「腕の立つ労組の委員長」としてH氏のことはよく覚えている、と。
※↑の画像はこにゃくうがH氏からいただいたもの
平成になって、ヨメの私が間に立つとは奇縁だね。
今回の記事は説明ばかり長くてスマンことてす。
最後にもうちょっとだけ、長っぱなしさせてちょ。
こんな僻地の山頂に何の産業があって、義父たちはナニをしていたのか?
この山で硫黄を採掘していたんだって
国内屈指の埋蔵量の硫黄鉱山として昭和4年に操業開始。高度成長期には産業の分野で需要が高まり、鉱山労働者の給料は意外にも麓の街、須坂市の会社員より良かったのだそうだ。
大学の環境資源工学科ってところを卒業した義父が小串鉱山を経営する会社「北海道硫黄」に就職したのは、けしてマタギになりたかったのでもなく、就職に失敗して山に篭ったわけでもないらしい。当時としては「勝ち組」だったんだね、と今更知るバカ嫁こにゃくう。
※↑の画像は操業最盛期の小串鉱山。その前の画像がほぼ同じ場所からの撮影
義母は義父と高校の同級生カップルだった。山奥というか、山頂に就職したばかりの彼氏に口説かれて、若いのにまあ!こんな山奥に嫁に来ちゃったらしい。惚れたら強いね。
※H氏の地図右手のクネクネ道はきれいに残っている。RV車なら行けるほど整備されている
義母に尋ねた。「当時は会社に定年まで勤めるシステムでしょ?下手したら、お母さんは一生この山の上で暮らすって、イヤじゃなかったの?」
「うん。ちっとも。冬は厳しいし、不便だけど自然の中で楽しかったよ。天気のいい日は破風岳に登ったり。綺麗な高山植物を眺めたり、山菜採ったりってけっこう好きだから」
なるほど
今でも義父と仲良し夫婦なわけだね 画像は義母お気に入りの破風岳
義父と同期の新入社員も東大生あり、京大生あり。慶応に早稲田・・・と有名大学の人ばかりだったそうな。まったく今じゃ考えられへんよ。恐るべし、高度成長期。
そんな硫黄採掘産業も永遠ではなかった。石油精製の途中で出る、回収硫黄って物体が新登場してしまい、山から苦労して採掘した硫黄の出る幕がなくなってしまった。
昭和35年からだんだんと細り、昭和46年(1971年)には経営が立ち行かなくなって、閉山になったというわけ。
長話に付き合ってくださった方、どうもありがとう! さあ、H氏の地図を頼りにようやく出発しますよ・・・ってところで続きは次回にしたい!
※小串鉱山跡行きを企画される方がいらしたら老婆心ながら。1年を通じて毛無峠は濃霧の発生が頻繁です。午前中良くても午後に視界不良になることも。この日は、天気図を睨んで天気の変化はないと判断した稀な晴天日のひとつでした。道を見失うと危険です。天候気候には細心の注意を。
- 関連記事
-