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京都

オット、琵琶湖疏水に感動する★京都・蹴上

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前の記事よりつづき 】
 
2014年4月13日(日)
山科毘沙門堂を後にして、次は地下鉄東西線で2駅の「蹴上」へ移動。
 
オットが言う。
「山科の疎水を見たら、琵琶湖疏水のことが知りたくなってきたー」
 

↑コレが山科の疎水です。
この水の流れの事が気になっちゃったみたいです。
「どこからどこを、どう流れてるの?」
「いつ、どーやって造ったの?」
 

「うーんとね、明治の初めにね、天皇が東京に行っちゃって寂しくなった京都をね
産業で活気付けようという話になってね、琵琶湖の水を京都に引くことにしたの。
水運とか、そーいうの期待してじゃない?
水力発電もできるようになったんだ。
それで京都は日本で初めて路面電車が走る町になったんだよー。
たしか、当時の東大を出たばっかりのニイちゃんが責任者になって造ったんだ。」
 
 ・・・な感じで、京都検定3級という低ステージらしい解説をするこにゃくう。
 そんなアバウトかつ曖昧な解説では納得いかなかったらしいオット。
 
 

「んじゃ、ちょっとココに寄って勉強していきたい!」オット)
あー。たしかに、こんな記念館が南禅寺のそばにあったっけね。
わたしゃ長年まったく無視してましたがな。
まあ、そー言うなら付き合ってやってもよろしくてよ。
 

琵琶湖疏水記念館の外観。
観光客もパラパラと見学しているけど、社会科見学の小学生とかが主なる来場者かしらー?
地味です。
京都市上水道局の一施設なんですよ。 
だから入場料タダ!
(↑京都情水道局のHPよりいただき画像)
 
スミマセン。
まさかこんなに面白い施設だとは1ミリも思わず、画像がまったくありませんw
 
じっくり見学すると、明治初期の京都人の先を見る目と野心
成し遂げた事業の偉大さに感心させられる。
タダ!が申し訳ない施設でした。
 

明治2年(1869年)の天皇の東京行幸以来、当時の京都は今からはイメージできないような寂れ具合だったんだそうです。
「このままじゃ京都はいつか奈良みたいになっちゃう!」
・・・って、当時の府知事・北垣国道が思ったんだそうです(奈良に失礼ですw)
 
 北垣知事の計画ってのが、現代からすると絶対無謀だろ、ソレ!ってな感じで
 
・琵琶湖から山を貫通するトンネル掘って、京都まで水路を造りたいなー。
・船を使って物資を運べたら、馬や人力に頼るよりも流通が栄えるやろー。
・将来的には工業を盛んにしたいんじゃが、今の京都の水脈では足りんなあ。水路を通じて琵琶湖の水を貰ったら一石二鳥じゃん!
・そや。明治天皇からの手切れ金10万円があるやん!国になんか頼らん。
・外国人技師の手なんか借りへん!日本人だけでやるんやー。
・オトモダチの大鳥圭介に聞いたんやが、東京帝大工学部卒業した田辺クン(23歳)って青年の卒論テーマが、まさに「琵琶湖疎水計画」なんやて。
・その企画をまんまパクればよろし。彼を技術主任にしちゃろ。
・ついでに、米国で完成したばっかりの水力発電っつーのも造れちゃうんじゃ?
 
・・・1885年のことでした。
 ザックリですけど、そんな計画。

 
山を貫いて、琵琶湖の水をもってくる。
最大の難工事は当時国内最長の2436mの第1トンネル工事。
当時の重機なんて、今と比べるべくもないレベルですから
2436mをほとんど人の手で掘ったんだと!
それでも、優秀な田辺クンは5年で琵琶湖疏水を完成させます。 
(発電所完成は1891年)
めでたしめでたし。
 
結局、予算ははるかにオーバーして125万円(現在の約9千億円!)になっちゃったんだけどね^^;
 
船による運搬は、トラック輸送に取って代わられる1951年まで続いていました。
約60年、大いに活躍したのだそうです。
 
日本初の水力発電。
世界でもなんと2番目!
その比重はその後、低下しましたが
疎水は京都の上水道の水源として今でも現役です。

蹴上界隈には、琵琶湖疏水の施設のアレコレが一世紀を越えて残っている
 【その1:インクライン】
 

↑画像は「インクライン」という、’船のケーブルカー’があった場所。
琵琶湖から引かれてきた水路は京都のここ、蹴上で急こう配になります。
ほぼ、絶叫スライダー状態!になってしまうので、船が転覆してしまう危険性大。
そんで、鉄道を敷いてケーブルカーの要領でゆっくり上り下りさせていたらしい。
 
今では両脇の桜が美しく「蹴上インクライン」(傾斜鉄道という意味)と呼ばれ、
お花見の名所です(この日はすでに散りはじめ)
 
【その2:ねじれまんぽ】
 

 
↑は「ねじれまんぽ」という理解不能な名前が付いた隧道。
(まんぽ=間歩、鉱山の坑道のことをまんぽっていうんだそーで)
インクラインの下を通り抜ける道として、今でも生活道路。
ノスタルジックでステキな佇まい。
 
【その3:南禅寺の水路閣】
 

火サス等でおなじみのアーチ橋。
1291年開山の古刹、南禅寺の境内にあります。
 

アーチ橋の上はこーなってます。↑
バンバンと威勢よく流れる琵琶湖疏水の分線。
この流れは南禅寺の先にある永観堂に向かい、さらに哲学の道へとつづいている。
 

由緒ある寺の一隅に、こんな西洋風の構築物ができることになって
反対運動とかなかったんだろーか?とも思う。
実際、福沢諭吉が「古社寺の典雅を傷つける」とお怒りだったそうだけど、
協力してくれた南禅寺さんは太っ腹!
いったい、どーやって南禅寺さんを説得したんでしょう。気になります。
もしかして、明治時代に入って寺の力は相当に削がれてしまったのかもネ。 
 

最初は山の中を通す予定が、皇族陵墓に引っかかっちゃうということで
このようなローマ水道橋的な水路閣に計画変更に。
120年経った今ではイイ感じに古びており、南禅寺の素敵スポットのひとつです。
(画像は2009年11月撮影のモノ)
 
【その4:哲学の道の脇の分水】

「哲学の道」は京都観光でも人気の散歩道。この先に銀閣寺がありますしね。
秋には紅葉、春には桜が石畳の上を彩りる。
その脇をサラサラと水が流れるのが、琵琶湖疏水の分流。
ここ鹿ケ谷あたりは高級住宅街なのだけど、もし琵琶湖疏水による水力発電を造っていなかったら、当初の計画ではこの辺りは工場群になる予定でした。
水流を利用した水車群でたくさんの工場を誘致して、産業を興そう!と。
途中、計画変更して水力発電を造ったおかげで今の「哲学の道」があるってわけ。
 
【その5:南禅寺界隈のセレブお屋敷群】
 
江戸期まで南禅寺の土地だった場所が維新以降、政府に取られ・・・
明治になってセレブの邸宅地になった。
 

こちら、野村さんち。
碧雲荘と名付けられた、野村財閥の創立者・野村徳七さんの別邸です。
今でも旧野村財閥の持ち物でして、一般公開されていません。
 

グーグルマップで見ると、こーんなでっかい敷地!
で、おっきな池がありますね。
平安貴族っぽく舟遊びなんてしちゃうのでしょう。
この池が造れたのも、琵琶湖疏水の水を採りこめたからこそ。
 

南禅寺界隈にはこの手の超絶リッチ別荘が10数件あります。
豪邸のマストアイテムは池なのだとすると
お屋敷を豪華に演出する池を可能にしたのも、琵琶湖疏水があったからこそ。
 

もし、明治のはじめに琵琶湖疏水を造っていなかったら。
古都京都の印象は今とはずいぶんと変わったものになっていたことでしょう。
当時の京都人のパワーに敬意を表します。
 
・・・と、オットの提案のおかげでいい勉強になりました。
(↑の水際はインクラインの終着地点。噴水はポンプアップではなく、疎水の流水の勢いだけで噴いているんだそーです)
つづく:祇園 割烹ふじわらで夕食 】
          
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4 Comments

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ensyu  

2014-07-11 20:08

おお!まさに京都検定を勉強中の私のためにあるような記事ですな^^
琵琶湖疏水の成り立ちをよく復習できました。
”北垣国道””田辺朔郎”はよく出題されます。
京都検定の先輩こにゃくうさん、ありがとう^^

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eigekaii  

2014-07-11 20:46

ここもいきました。

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こにゃくう  

2014-07-15 21:42

ensyuさん、返コメ遅くてゴメンナサイ!
こんな長文をよくぞ読んでくださいました(涙)
ありがとーございます!

>”北垣国道””田辺朔郎”はよく出題されます。

そうなんですよね!
私はこのお二人の名前と業績は京都検定の公式テキストを読んで初めて知ったのでした。
やっぱ、京都検定を主催する京都商工会議所としてはこの琵琶湖疏水の経緯を多くの人に伝えたいのでしょーね。
たしかに凄い事業だったと思います。
NHKにドラマ化していただいてもよさそうだと思うんだけども。

ensyuさん、京都検定がんばってくださーい!

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こにゃくう  

2014-07-15 21:44

ぎいさん、ステキでしたでしょう?
蹴上・南禅寺界隈はこの琵琶湖疏水関連の施設のおかげか、京都の他のエリアとはちょっと趣が違いますね。
多くの人が惹きつけられます。

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